仙覚は、比企一族が北条氏の陰謀で滅亡した建仁 3 年( 1203年)「東路の道のはて」今の茨城県で生まれたことが、仙覚の記した「仙覚律師奏覧状」などからわかります。
仙覚は、能員の内室の子とする伝承があるほど比企一族とは深い関わりのある人物とされています。
7 歳で寺入りし、 13歳から万葉歌の研究を始め、鎌倉四代将軍頼経の命を受け、 44歳から比企一族ゆかりの地、比企谷の新釈迦堂で万葉歌の研究に打ち込みました。
仙覚律師となり、天台密教の僧として研鑽を重ねてきた悉曇(しつたん)文字や万葉仮名を駆使し、64歳で全く読めなかった152首を含め、4500首以上の歌を全て読み『万葉集』を 完成させました。
その後、研究地が小川に移ります。難解な『万葉集』を後世に託すには、解説書が重要であるとして編さんにとりかかり、67歳で日本初の『万葉集註釈』を小川町で完成させました。
この業績を称える仙覚律顕彰碑が中世の城跡「中城」に建立されたのは、佐佐木信綱により 仙覚の功績が広く認められた昭和3 年( 1928年)で、 4 mを超える碑の撰文と仙覚賛歌も信綱が寄せています。