岩殿観音の呼び名で親しまれる観音様。阪東三十三観音霊場第十番札所。

【創建】
逸海上人 養老2年 (718年)

【中興】
鎌倉時代に比企能員が中興、観音堂建設や北条政子の守り仏千手観音を安置しま した。
*永禄年間(16世紀中頃)松山城合戦の兵火で全山焼失

【再建】
栄俊 天正 2年 (1574年)
*その後幾多の火災に遭い、現在の観音堂は明治時代に移築した建物です。

【ご本尊】
正法寺・・・・・阿弥陀如来立像(鎌倉時代の作)
岩殿観音堂・・千手千眼観自在菩薩(現在の本尊は室町時代の作と云われています)

【仁王門】
額「巌殿山」 加賀大乗寺四十三世貫主愚禅和尚の書です。
仁王像は運慶作でしたが、江戸時代に焼失し文化年間 (19世紀初め)に再建されたものです。

額「厳殿山」
仁王像

【上田朝直制札】
天正2年(1574年)3 月に戦国時代の松山城主上田宗調朝直が発した制札。巌殿山一体の木や草を刈り取ることを禁じたものです

【銅鐘】
元享2年(1322年)鋳造、外面に無数の傷が付いており、天正18年(1590年)に豊臣秀吉よる関東征伐の際に、兵を鼓舞するために山中を引き回した傷だと 云われています。

【鐘楼】
元禄15年(1702年)建造、東松山 最古の木造建築。

【大銀杏】
樹齢700年と言われる大銀杏です。

【判官塚・判官神社】
判官塚は比企能員の追福のために、築きしものと伝わっています。

岩殿観音に伝わる伝説クツワムシ

「ある秋の夜、ここ巌殿山正法庵に、尼僧姿の女性が供の者と訪ねてきた。これは比企の乱により鎌倉から落ちてきた比企能員の妻であった。庵主は恩人であるこの尼僧を守るために小さな庵を貸して匿った。
このころ落人は追手の気配に気がつくために、人の気配を察すると鳴き声を止めるくつわ虫を隠れ家に放っていた。それならば、と和尚はこれ逆手に取って追手に警戒されぬよう岩殿山のくつわ虫を取りつくし、あえて虫の鳴き声のせぬようにしてしまった。 この配慮によって 能員の妻は無事に男児を出産した。」

《場所》 〒355-0065 東松山市大字岩殿1229
《アクセス》
①バス(川越観光バス“鳩山ニュータウン行き”)
高坂駅西口→「大東文化大学」下車  *クリックで時刻表が開きます
進行方向鳩山町方面に上り坂を歩くと県道を挟んで右側に「岩殿観音」の看板が見える。
地下通路を利用して正法寺へ
②自動車
関越道東松山ICから県道41号(関越沿い)を南(高坂方面)に進み、大東文化大学東松山キャンパスを目指す。
県道212号を鳩山町方面に向かい、大東文化大学を越えると右側に岩殿観音駐車場がある。
地下通路を利用して正法寺へ

《判官塚アクセス》

①(大東文化大学側駐車場から)
上図参考のうえ、物見山駐車場から岩殿観音大東文化大学側駐車場へ向かう
※駐車場を出たら道路を横断し右側通行→左側歩道無しのため
正法寺へ向かう地下通路の反対方向、大東文化大学裏手通路を進む
道なりに進むと左手側に見えてくる
②(参道から)
参道より岩殿観音に約250m進むと、左手側に登り口が見えてくる
階段を上り道なりに進むと突き当りに判官塚がある
*判官塚には駐車場はありません。物見山駐車場をご利用ください。

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